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大川小学校から未来へ

震災が気づかせてくれた本当に大切なこと

 

 

 

 

「奇跡の子ども」、「津波に飲まれて奇跡的に生き残った唯一の少年」…「『ぼく』じゃなくて、『大川小学校であったこと、大川地区に住んでいた人たちにどんな悲しいことがあったのか』を知ってほしかったんです」。東日本大震災以降、多くのメディアに取り上げられた心境を語るのは、只野哲也さん。小学校5年生の時に東日本大震災の被害にあい、その後、大川小を震災遺構として残すための活動や、震災の記憶を後世に残す語り部としての活動を続けてきた。只野さんは現在大学2年生。あの日から9年が経つ今、何を思うのだろうか。

只野 哲也さん
東北学院大学2年生

▽東日本大震災▽
帰りの会で「さようなら」を言おうとした瞬間、大きな地震が起きた。実は、その2日前にも地震があったため、すばやく机の下に隠れることができた。地震が起きたら津波が来ることを知っていたものの、津波の写真や映像は見たことがなく、それからどんなことが起きるのか想像もつかなかった。
2日後には、多勢のテレビや新聞記者が避難所に押し寄せた。取材を受けることに抵抗はなかったという只野さん。「小学生ですから震災の記憶はどんどん曖昧になっていきました。最初のうちは聞かれた質問に、何も考えずに答えていましたが、だんだん、覚えているうちに話して残していこうと思いながら取材を受けるようになりました」

▽悩む日々▽
ところが、中学生、高校生になるにつれ取材に対する違和感やストレスを感じるようになったという。メディアは只野さんについて「奇跡」や「唯一」というような言葉を使った。悲劇の主人公、特別な存在として記事が書かれることに対し、自分のことではなく、なぜ大川小のありのままを取り上げないのか、と不思議に思うようになった。
震災の被害を受けた大川小学校の校舎を目の当たりにしたのは震災後すぐだった。時が流れ、中学生になると、校舎は残さなければならないのではないかと考えるようになった。きっかけは、大川中学校の校舎が取り壊され、その後、大川の釜谷地区で唯一残されていた釜谷診療所も取り壊されてしまったことだった。このままでは大川小の校舎も無くなってしまうと危機感を感じた。その頃、東京の明治大学や青山学院大学で講演を行う機会があった。その経験から、自分の言葉で人々に震災のことを伝えたいという思いが強くなった。
しかし、そんな只野さんに周りの大人たちがすぐに協力してくれるわけではなかった。目立ちたがり、出たがり、震災のことをいいネタにしているという心ない言葉も聞こえてきた。同級生たちからも「どうして取材受けてるの?」「慣れてるよね」と言われることがあり傷ついた。「自分がしていることは間違っているのかもしれないと思うこともありました」
何が正しいのかわからない、周りからの反応が気になる、そんな状況でも只野さんは活動を続けることを諦めなかった。その姿に、大人だけではなく、同世代からも大川小を残そうという声が上がり始めた。少しずつ仲間が増えていくたび、感じていた不安やプレッシャーが消え、心が軽くなった。それまでやってきたことに誇りを持ってもいい、批判的な声も気にする必要はない、そう気づいた。

▽前へ▽
只野さんが大川小の校舎を残すことにこだわるのには理由があった。自分の母校だから残したいというだけではない。写真や映像では伝えることができないあの場所の空気を多くの人に肌で感じてもらうためでもあった。辛いから見たくない、思い出したくない気持ちは確かにあるが、それよりも、東日本大震災を他人事にして終わってほしくないという思いが強い。時とともに、大川小学校を訪れる人が増え、震災の記憶を風化させまいとする人たちが増えてきたと感じている。
しかし、只野さんはまだやるべきことが山ほどあると言う。例えば、大川小に訪れる人たちに「被災者に寄り添っていただく」こと。大川小での語り部活動をしていると、校舎の前で記念写真を撮る際に、笑顔、ピースサインの人たちを見かける。まだ伝えきれていないことがあると実感し、語り部活動を通じて少しずつ意識を変えてもらいたいと思う。目に見えない復興の問題にも只野さんは注目している。道路の整備や観光施設の建設は進んでいる。そういう復興も大事だが、人の気持ちの復興も大切だと考えている。
だから、震災によって少なくなってしまった近所づきあいや、その経験の辛さから、自分の殻に閉じこもってしまう人のように、精神的な復興が必要な人たちのためにできることを模索中だ。その上で震災に向き合うとき、「否定しない・強制しない・丁寧に向き合う」ことを大切にしたいと話してくれた。

▽未来に向かう決意▽
今、震災当時の状況を振り返ると、只野さんは特に子どもたちについて思うことがあるという。「あの時は、ぼく自身もそうであったように、子どもが子どもでいられなかったと思います。悲しんでいる暇なんかなくて、大人を困らせないように我慢していました。でもそんな子どもたちって、震災後の今でもいると思うんですよね」だから、震災について学んだり、後世に記憶を伝えるための活動を行う若者がもっと増えてほしいと思っている。語り部として活動する人たちの中で若い人は少ないので、只野さんは一日も早く一人でこなせるようになりたいと言う。震災のことについて覚えておきたい人は、震災の当事者より県外や国外に多いと考えているため、いずれは語り部活動をする場所を増やしていきたいそうだ。
将来は警察官になりたいと言う。思いやりをもって地域の人たちとつながる警察官に。震災時、人のために懸命に活動する警察や自衛隊の人たちを見てそう思うようになった。「震災があって目を覚ましたような感じです。失ったものは計り知れませんが、全部が全部悪くなったとは言えません。人と人のつながりがいかに重要かということ、当たり前はいつでも急になくなることなど、本当にたくさんのことに気がつきました」
大川小学校を「小学校」として見ている人が少ないと思う、と語る只野さん。春には全校生徒がお花見をし、夏には運動会をする、どこにでもある普通の小学校だったのに。「大川小学校を残すことで、二度と同じことは繰り返さないという決意をこれからも伝えていきたいです」

 


▲語り部活動を行う只野さん(右)


▲震災前の授業風景

 


▲地元の人たちが子どもたちを見守っていた

 

大川小学校

1873年(明治6年)開校。
2011年の東日本大震災の津波により、
74人の児童と教職員10人が亡くなった。
2016年被災した校舎の保存が決定。
2018年閉校、二俣小学校に統合。

【取材・文】
齋藤 小枝(石巻好文館高校1年生)