江戸時代のこと。伊達藩の千石船若宮丸は、寛政5年(1793年)、米と木材を積んで石巻から江戸に向かう途中、漂流した。16人の乗組員は全員亡くなったと思われたが、12年後、4人が日本に戻ってきた。今年は、そのうちの1人、津太夫が亡くなってから200年。その法要が行われると聞いて、浦戸諸島の寒風沢島(塩竈市)に行ってみた。
寒風沢島に着くと、船着き場に小さい船が停まっていた。その正体は、朝顔の種の形をした、その名も「種は船」。種が人と人を繋げていく様子が、船のようだったことから、町や地域の交流のために作られたアートプロジェクトだそう。船長の喜多直人さんは石川県金沢市出身の記録写真家。浦戸諸島のみなさんに、震災後、復興していく風景の変化をみてもらいたくて、寒風沢島の向かいにある野々島で写真展を開いたそうだ。震災後、宮城県で活動することが増えて、住みたいと思っていたところ、「種は船」アートプロジェクトに船長として参加することになった。今は塩竈市に住んでいる。
「種は船」には、宝箱が積んである。訪れた土地の風景をスケッチしてもらい、宝箱に入れて、海から海からへと運んでいくのだそうだ。喜多さんは、「道のない海に船を出すと、いつもと違う時間を過ごせます。そこが、船の面白いところだと思っています」と話してくれた。
若宮丸の乗組員たちは、どこでどんな生活をしてきて、日本にどんなものを運んできたのだろう。法要の会場に、若宮丸についての資料があった。面白い写真がたくさんあった。これらは、大槻玄沢という人が、帰国した津太夫たちに取材をして「環海異聞」(文化4年、1807年発行)という本にまとめたものだそう。津太夫たちが世界一周をしたときの記録だ。
(続く)