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おかえり 高橋英吉の作品たち 湊出身の天才彫刻家

皆さんは「高橋英吉」という人を知っているだろうか。石巻市湊出身の彫刻家だ。昭和初期に有名な展覧会で、数多くの賞をとるなど活躍したが、第二次世界大戦の激戦地となった南太平洋のガダルカナル島で31歳の若さで戦死した。英吉が残した「海を主題とする三部作」(海の三部作)などの多数の作品は、東日本大震災後に石巻市から離れていたが、複合文化施設のマルホンまきあーとテラス内の石巻市博物館の開館によって間もなく戻って来る。さまざまな困難を乗り越えた作品は、平和の大切さを伝えてくれる。

ひいでた才能

高橋英吉は、明治44年(1911年)に宮城県湊町に生まれ、湊小学校、旧制石巻中学(現在の石巻高校)、東京美術学校(同東京芸術大学)を卒業した。
子どもの頃から工作などが大好きで、学生時代には先生に見つからないように、机の上に教科書を立て小刀1本でチョークやエンピツ、机などに船や般若を彫っていた。
いつものように授業中に彫っていると、先生に見つかってしまった。でもしかられることはなかった。その時に彫っていた先生の顔があまりにも素晴らしかったからだ。
彫り始めると没頭する英吉を心配して、はじめのうちは、友人たちも注意をしていたが本人は聞く耳を持たず、いろいろな作品を作り続けた。そして彫るものがなくなったら船のイラストを描いていた。でもイラストのコンクールでは上手すぎて賞に入らなかったという。

多くの傑作残す

英吉は短い生涯の中でも数多くの作品を残している。有名なのは、「海の三部作」や「少女像」などだ。それらの作品は、文展や院展という、日本の美術界でも権威ある展覧会で特選などの大きな賞に輝いた。そして審査員たちから「おもしろい」や「りりしい」などの評価を受けた。
「海の三部作」は、「黒潮閑日」「潮音」「漁夫像」からなるものだが、わざわざ捕鯨船に乗り込み、昼間の漁師の様子をスケッチして作ったほどだ。英吉は、とことん調べてから作品を作る彫刻家だった。
しかし、英吉が作品制作に励んでいた時代は、第二次世界大戦が激しさを増していたころだった。「潮音」が文展で特選を受賞した翌年の昭和15年(1940年)に召集令状を受け、翌年、子どもが生まれたわずか3か月後に入隊。東南アジアを転戦した。
17年には、ガダルカナル島の戦地へ向かったが、その途中の船の中で、流木と鋭い金属だけで「不動明王像」を作った。これが最後の作品になった。
また、日本で作っていた聖観音立像は、16年に東邦彫塑院展に出展し、東邦彫塑院賞(院賞)を受賞したが、英吉はこの作品を未完成と考えていた。戦地から帰って来たら仕上げるつもりだったが、その願いはかなわなかった。

震災を乗り越えて

英吉の作品は戦後、いろいろな場所に散らばっていた。それらをたくさんの人に見てもらおうと、昭和61年(1986年)11月に石巻文化センターが南浜町にオープンした。
しかし、25年後の平成23年(2011年)3月の東日本大震災で南浜町は津波に飲み込まれ、文化センターにも波が押し寄せた。
幸い、海の三部作は2階の常設展示室にあったため助かったが、1階に収蔵していた作品は被災した。また文化センターが解体され展示する場所がなくなった。そのため宮城県美術館や東京都にある国立西洋美術館に一時保管されていた。
それを再び石巻市に保管すべく石巻市総合運動公園の近くに複合文化施設のマルホンまきあーとテラスが完成。今年の秋に英吉の作品の展示が始まる。
10年ぶりに〝古里〟に戻って来ることを楽しみにしている石巻市民は多い。英吉作品のファンで、代表作の一つの「少女像」をテーマに「女の子に会いに」という児童書を出版している千葉直美さんもその一人だ。
「高橋英吉の作品は、生きる喜びや命の大切さを表現しているものが多いです。東日本大震災の被災地石巻に希望の灯をともすでしょう。平和のメッセージもこめられています」と話し、多くの人に見てもらうことを願っている。

海の三部作など多数


権威ある美術展の文展で特選を受賞した第2作「潮音」


文展無鑑査(審査なし)の第3作「漁夫像」


文展で入賞した第1作「黒潮閑日」

取材・文
木村 和寛
黒川 愛来
水野 駿
(湊小学校6年)

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