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ロータリーエンジンと共に 駆け抜けた道

マツダ広島本社を取材しました

「いつか広島のマツダに取材に行きたい」というぼくの夢。それが、この夏、突然かなうことになった。いつもこの新聞を読んで応援してくれる「こども記者サポーター」の亘理比呂樹さんが記事を読んで、マツダに連絡をしてくれたのだ。そして、車が大好きな兄と一緒に、広島本社への取材に招待していただいた。

 


▲渓志郎記者が8千人目の見学者となり、エンジニアのみなさんから大歓迎を受けた


▲1991年、ル・マンで初優勝した787B。本物です!

プロジェクトについて
小学3年生のとき「頭文字D」という漫画を読み、そこにでてきた車「FD3S」がかっこいいと思った。そして、その車のことを、本やインターネットで調べたら、「ロータリーエンジン」というエンジンで動いていること、そのエンジンはマツダでしか作れなかったということを知った。軽量コンパクトで、加速がいいなどの魅力があり大好きになった。

キーホルダー「ロータリー」
4年生のころ、留守番のときにダンボールでロータリーエンジンの模型を作った。そのあと、石巻日日こども商店の「好きなものを描く」というワークショップがあった。エンジンは銀色だけど、色をつけてみたら?と勧められたので、カラフルに描いてみたらおもしろくなった。自分が考えた色ならだれともかぶらないとおもったからどんどん描いた。そして、その絵をキーホルダーにすることになり、売り上げを「京都大学iPS細胞研究基金」に寄付することにした。手塚治虫の「ブラック・ジャック」をよんで人の命を救うのはすばらしいと感動し、難病を治すために役立ちたいと考えたからだ。
そこで、150個のキーホルダーを作った。ところが、マツダの取材をしてから、同社とロータリーエンジンファンのみなさんが協力してくれて、150個の目標はあっというまに達成した。今の目標は1千個。みなさん応援してください!


▲夢の実現はここから始まった。ゴム動力のダンボール製ロータリー
(制作:小俣渓志郎 2017年)

マツダ100年の歴史
2020年にマツダは創業100周年を迎える。1920年大正9年1月30日、初代社長松田重次郎さんによって東洋コルク工業株式会社が設立された。もともとはコルクを作る会社だったのだ。冷蔵庫のない時代、コルクは断熱性がよく、コルクの箱に氷を入れておけば冷蔵庫代わりになるなどさまざまな使い道があった。
ところがその会社が火事になってしまい、5年目に倒産しかけた。これを機に重次郎さんはコルクの会社をやめて、もともとやりたかった機械を作る事業を始めることにし、1927年、会社名を東洋工業株式会社に変更した。
そして、最初に三輪トラックを作ることにした。100年前の広島はとても田舎で、道も整備されていなかった。自家用車を買えるような人たちもまだ多くはなかった。東京や大阪や名古屋などの大都会だったら、四輪の乗用車が売れたかもしれないが、地方はまだ貧しかった。重次郎さんは、裕福な人だけが乗れる車ではなく、だれにでも使ってもらえる車を作って社会に貢献しようと考えたのだ。そして、1931年から3輪トラックの販売を開始した。
1938年ごろから戦争が激しさを増し、会社も個人も自由に行動ができなくなっていった。そこで、3輪トラックの車体やメーター回りなどの色を緑に変えた。緑色のメーターパネルは「グリーンパネル」と呼ばれた。グリーンは、青春、幸福、平和の代名詞であり、平和と安全を願ったものだ。その願いの通り、3輪トラックは、戦後、物資を運び復興に貢献することになる。


▲マツダが最初につくった三輪トラック。終戦後、物資を運んだ


▲グリーンパネルには平和への願いが込められていた

 


▲マツダに寄贈した4枚目の「ロータリー」にサインする渓志郎記者。広島本社に展示されている(提供:マツダ株式会社)


▲キーホルダー「ロータリー」とその原画場所:石巻ニューゼ「こども商店」

石巻日日こども商店とは
石巻日日こども新聞の記者たちが、取材活動で発見したことやアイデアを表現し発信し、社会に参加することを目的に、2016年、公益財団法人三菱財団の助成を受けて開始。

【取材・文】
小俣渓志郎(大曲小学校6年生)
小俣翔太郎(矢本第二中学校3年生)

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