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今、あの日を振り返る 2011年3月11日

特別な思いをもって語り部活動を続けている渡辺雄大さん
特別な思いをもって語り部活動を続けている渡辺雄大さん

「侃太の声が聞こえたから」 渡辺雄大さん(東北学院大学3年生)

今年で東日本大震災から11年目。私は震災当時、2歳。ヘリコプターで救助されたと聞いているが、全く覚えていない。今、東日本大震災の被災地では、私のように、震災を知らない子どもたちがほとんどだ。そこであの震災を経験した人たちを取材し伝えたいと考えている。今回は、語り部活動をされている渡辺雄大さんを取材した。

渡辺さんは震災当時、渡波小学校の4年生だった。5時間目、理科の授業を受けていたとき、強い揺れが来た。机の下にもぐった。揺れが収まり避難しようと外に出ると、校庭の地面にはひびが入っていた。児童たちは体育館に避難した。
迎えに来た保護者と先生の間で話し合いがあり、児童たちは家族に引き渡され、渡辺さんも母親と一緒に帰宅することになった。一度家に帰り、避難する途中で、母が親戚に連絡するため空き地に車をとめて電話していたときだった。
「車から窓の外を見ると津波がすぐそこまで迫っていたのです。言葉になりませんでした」。降りると、すでに車は水に浸かり、足元には水がせまっていた。恐怖で立ちすくみ、動けなくなってしまった。すると、知らない男性が渡辺さんを背負い、家族とともに陸橋まで誘導してくれた。そこから津波が家や人を押し流すのを見ているしかなかった。
夜は雪が降り、すごく寒かった。陸橋に避難した車に乗せてもらい、祖母が持っていた靴下を手袋のようにはめ、暖を取った。ずっと泣いていたことは覚えていると言う。
渡辺さんは震災で同級生の遠藤侃太さん(当時10歳)を失った。侃太さんのお父さんは木工職人で、被災した自宅跡地に子どもたちが遊べる遊具を作って、「虹の架け橋」と名前をつけた。渡辺さんは、人生の節目になると虹の架け橋に行っている。そこには、侃太さんと、ともに津波で命を落とした姉妹の慰霊碑があるからだ。
初めて虹の架け橋に行ったとき、侃太さんの声が聞こえた。「『俺のこと、忘れないで』と言っていました。それが、語り部になるきっかけになりました。震災の経験を語ることは10年たった今でも辛いことです。そのたびにその時の気持ちや状況を思い出して苦しい気持ちになりますが、それでも伝えていかなければいけないと思うのは亡くした友人のため。これからも侃太と一緒に生きていきます」と話してくれた。
語り部として、簡潔に分かりやすく話すこと、喋りだけで伝えるため感情を込めて話すことを大切にしている。大切な人を守り、教訓を伝え合い、災害への意識が高めるためだ。つらいエピソードを知ることがいやならば、震災を知らなくてもいい、それでも教訓は一言一句聞き逃さないくらいの気持ちで覚えてほしい、と渡辺さんは言う。
震災の経験から学んだことは、日常的に経験を話し合い、意見をもらい、解決法を見つけ、それを実現するためにどうするかを考えること。災害を想定して、家族で話し合うなどの備えが大切だ。近隣でコミュニケーションを密にし、隣同士1台の車で避難すると決めておけば渋滞を減らすことができる。このような一つ一つの小さな積み重ねが重要で、災害についていつも意識し、次のことに備えていれば、悲しい思いをしないですむ。皆がいつも幸せでいられる世の中であってほしい、と渡辺さんは願っている。

渡辺雄大さんと第40号で紹介した阿部任さんの震災体験が漫画動画で紹介されています。
「あの時、こどもだった私たちから伝えたいこと」
MEET門脇 宮城県石巻市門脇町5丁目1−1
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取材・文
村松 玲里(蛇田中学校1年生)

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