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むかしむかし大須小学校で 大須・桑浜・羽坂・熊沢地区の みなさんに聞きました

敬老交流会でみなさんと記念撮影

 石巻市立大須小学校は、平成29年3月に長い歴史を閉じる。最後の児童となる5人が、かつて大須小学校と桑浜小学校で学んだ地域のみなさんに忘れられない学校の思い出を取材した。
 第二次世界大戦があった昭和10年~20年ごろ、大須・桑浜地区は漁業でにぎわい、たくさんの子どもたちがいた。今では想像もできないが、人数が多いから、教室がせまく感じられるほどだった。黒板はあったけれど、まだノートはなく、かわりに石盤を使っていた。戦争で物が不足していたので、石盤はこわしたらなかなか買ってもらえない。だから、とても大切に使っていた。授業では、違う学年の子どもたちも一緒に勉強した。子ども同士で教えたり、教えてもらったりして、休み時間になると、みんな校庭で元気に遊んだ。なわとびや馬乗り、竹馬などをした。校庭には手作りの遊具もあった。
 先生はとても厳しかった。一人の子どもが悪いことをすると、学級全体の子どもたちが廊下に立たされる。悪いことをしたら、朝礼の時にみんなの前で叱られる。学校では、先生の言うことを聞かないと怒られる。家では親からも怒られる。子どもたちは怒られてばかりだが、親の手伝いもしっかりした。浜の仕事が忙しい時は、小さな弟や妹をおんぶして学校に行き、授業中に泣き出すと、校庭の梅の木の下であやして、泣き止むとまた教室に戻ったそうだ。
 戦争の時は、食べ物も不足したので、木を伐採して畑を作った。海軍の農耕隊も来た。今は杉林になっているところも、昔は畑だった。食べ物をつくる面積をなんとか増やそうと必死だった。土地が斜面で田んぼにできないので、段々畑をつくった。麦やさつまいも、だいこん、かぼちゃなどを育てていた。高学年になると子どもたちも畑仕事をした。放課後、畑のだいこんを抜いてかじりながら帰ったこともあった。
 道路も途中までしか整備されていなかったので、パン箱やびんにはいった牛乳ケースは、車で通れる道路があるところまでしか運ばれてこない。給食運搬のための父母の班がつくられ、3~4人で山を越えて学校まで運んだ。給食の時間に遅れないように届けるのが大変だった。地区には井戸があり、飲み水や生活に使っていた。風呂の水も井戸からくんだ。木の桶に薪をくべる釜がついた鉄砲風呂、下から火を焚いて直接沸かす五右衛門風呂。水がたくさん必要なので、何度も何度も井戸まで往復しながら、水をくんだ。子どもたちは大人と一緒によく働いた。

【取材・文・制作】大須小学校|阿部太遥(2年生)・阿部佑成(4年生)・永沼ちはる(4年生)・永沼海生(5年生)・永沼未帆(6年生)

雄勝地区の学校の変遷
 石巻市雄勝地区に学校ができはじめたのは明治初期。雄勝町時代は水浜地区、雄勝地区、船越地区、桑浜地区、大須地区にそれぞれ5つの小学校があったが、平成14年、水浜小学校が雄勝小学校に、桑浜小学校が大須小学校に統合されて3つになった。雄勝町は平成17年に石巻市の一部となる。平成23年に東日本大震災が発生し、住む場所に大きな変化が起きた上に、かねてからの少子化が影響し、平成25年、船越小学校が雄勝小学校に統合。現在は大須小学校と雄勝小学校の2つになっている。そして、この2校は来年3月にそれぞれ閉校し、4月から新しい学校の「雄勝小学校」としてスタートすることになっている。

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