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校長先生に聞く震災の経験| 忘れてはならない3.11

坂本校長先生

 坂本忠厚さんは、わたしたちの学校の校長先生。今年4月に赴任した。東日本大震災の時は石巻の教育委員会勤務、その後、南三陸町の戸倉小学校、東松島市の大曲小学校と、県内でも震災の被害が大きかった地域で復興を見守ってきた。
 坂本さんは、初めて柴田小学校に来た時、東日本大震災のことを思い出してこう思った。「校舎が建っていることは幸せなことだ」と。柴田町は宮城県でも内陸にあり、津波の被害はなかったところだ。
 東日本大震災が発生した時、電車に乗っていた。百人一首の指導のため外国に行く予定で、千葉県の船橋市あたりを通過中だった。帰る手段がなく1週間後、新潟、山形を経由し、ようやく石巻の自宅に戻った。それほど海に近くはないので津波は来ないと思っていた。しかし、家は津波の被害に遭っていた。畳まで津波が押し寄せ、庭にはたくさんのものが流れてきていた。車は水没して動かない。
 石巻市は日本で4番目に大きい北上川河口の街。山も海もあり自然が豊かなところだ。日本製紙の大きな工場があり、人口は約15万人。石巻の家は津波でたくさん流されてしまった。学校も津波の被害にあったり、避難所になったりして、子どもたちは勉強する場所をなくしてしまった。食べるものも、電気も水もなかった。学校の再開を待ち望んでいた。
 南三陸町は目の前に太平洋があり水平線が美しいところ。山が海に迫っていて、山と海の間に家がへばりついている感じに建っている。南三陸町も津波で家や学校が流された。「町の建物がほとんど流されてなくなったような感じでした」と坂本さんは言う。戸倉小学校も校舎が流されてしまったので、志津川小学校の1階を借りて勉強した。自宅が遠くなり、全員がスクールバスで通学し、中には1時間かけて通学している児童もいた。「それでも、子どもたちは元気に遊び、一生懸命勉強していましたよ」
 東松島市も目の前が海で田畑が豊かなところだ。津波で、仙石線の列車が流され、駅や線路が使えなくなった。家もたくさん流された。「でもね、石巻でも、南三陸でも、東松島でも、みなさん、自分の故郷に住みたい、働きたい、と言っていましたよ」と教えてくれた。
 坂本さんは女川町で生まれ育った。震災から2カ月たったころに訪れた女川には、何もかもなくなっていて、家や車がごちゃごちゃになっていて、びっくりしたそうだ。今では、駅が再開し新しい街ができている。「懐かしい景色がなくなってしまったのは残念ですが、前に向かって進んでいる感じがしました」
 坂本さんが特に震災のことを思い出すのは3月11日が近くなる頃。時間がたつにつれ忘れてしまう。震災直後に気をつけていたこともしなくなってしまう。「いつまた起きるかわからない。『自分は大丈夫』という甘い気持ちを捨てて、そのようなことがないようにしたい」と自分に言い聞かせている。

【取材・文】浅野 春倫・近江 英恵・大沼 小春・加茂 凛朱・狩宿 郁奈・菅井 友愛・平間 拓真・ 平間 勇士・山家 沙耶(柴田小学校6年生)

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