私のひいおばあちゃんは90歳。昭和3年(1928年)に門脇小学校に入学して、昭和9年(1934年)に卒業した。今、門脇地区には家がなくなり、雑草が生えている。ひいおばあちゃんが通っていた門脇小学校は、津波と火事で使えなくなった。明治6年(1874年)にできた石巻で一番古い小学校、80年前の門脇小学校の生活はどうだったのか聞いてみた。
私が通う門脇小学校の歴史
門脇地区には、西光寺、牛を飼っている牧場が2軒、内務省の建物、魚市場や田んぼがあった。冬になると田んぼに氷がはる。学校までの近道だからと氷の上を歩いて、転んでぬれてしまった時、こっそり友だちの家のうらでたき火をして乾かしたりした。
学校は月曜日から土曜日、週に6日行っていた。1年制から3年制まで、ひとクラスには30人以上で2クラス、4年生から6年制までは、釜分校(現・釜小学校)から各学年1クラス通って来るので3クラスになった。男組、女組、男女組の3つがあって、ひいおばあちゃんは女組だった。由利徹さんが同級生だったけれど、由利さんは男組だったので話したことは覚えていない。有名になってから同級生だと知ったそうだ。
そのころまだ校歌はなかった。校庭には鉄棒と天皇陛下の写真を入れる保管庫があって、その土台になる石ころを積み上げたことを覚えている。給食もなかったので、お弁当や梅干しのおにぎりをもって行った。ランドセルもない。ふろしきにつつんでいたそうだ。低学年のころは雄勝石の石ばんに白い石ペン、高学年になってからノートとえんぴつを使って勉強していた。服装はほとんどの人がきもので、卒業するころは、夏は簡単服(ワンピースに少し飾りがついたもの)、冬はお母さんの手編みのセーターにスカートだった。
水泳の授業は川で行った。北上川の「おわんこ」(北上川河口近くの船着き場)まで行って、泳いだ。運動会ではマスゲーム、ダンス、玉入れ、男子は騎馬戦などをした。昔は、「ボス」はいたけれど、「いじめ」はなkったそうだ。運動会で「ボス」はリーダーになって大活躍し、みんあは「ボス」を応援した。小学校の頃の思い出で今でも忘れられないことは、5年生の時の学芸会で、友だちと2人舞台に立ってローレライダンスをしたとき、店舗がおくれてとてもはずかしい思いをしたことだそうだ。
5年生のとき(昭和8年1933年)、大きな自信があった。津波が来たかどうかはよく覚えていないけれど、外の立ち木につかまっていたことをなんだか覚えているそうだ。3月でまだ寒いときだった。友だちが病気になってとても大変で、6年生の1学期に遅れ、担任の先制がとても心配してくれた。
家が遠かったので、学校に通うのは大変だった。職員室で迎えを待っている間、先生が食パンにバターをぬって、炭火で焼いてたべさせてくれた。それがおいしくて今もわすれられないのだそうだ。ちょうちんをもって、ようやくむかえにきたお母さんが、おなかがすいているだろうとおにぎりをもって来てくれたけれど、食べられなかった。先生にパンをもらったことは秘密にしていた。
くらしは不便だったと思うけれど、昭和のころに行って学校の回りや町を見てみたくなった。そして、そのころのひいおばあちゃんに会ってみたくなった。
取材・文・絵:酒井 理子(門脇小学校4年生)、酒井 圭佑(日和幼稚園年長)