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60年前の大曲のくらし|家に帰ったらカバンをなげてレッツ・ゴー

開校当時の大曲小学校校舎(1956年)

 東松島市にある大曲小学校は今年で創立60周年。学校ができたころの地域のくらしはどうだったのだろうか。大先輩の雫石巌さんと菅原和範さんにお話を聞いた。

 60年前、大曲小学校には1クラス50人近くの生徒がいて、各学年3クラスずつあった。男の子は黒い学生服を着て、短靴(長靴を短くしたようなゴムのくつ)をはいていた。髪型はみんな坊主頭。女の子に制服はなかった。通学はみんなでいっしょ。大曲浜の子どもたちは、3年生まで近くの分校に通い、4年生から本校に通った。冬は川も田んぼも凍って学校までの近道になった。
 校舎は木造で平屋。校庭には、てつぼうとブランコがあった。プールはまだない。でも、校歌は今と変わらない。修学旅行も今と同じで福島県の会津だった。運動会では、玉入れ、騎馬戦、徒競走、リレーなどがあった。学芸会では色々な劇をした。今と同じだ。
 給食はなく、お弁当やおにぎりだ。ごはんにのりをのせ、その上にまたごはんをのせてのりをのせる「のりの2段弁当」がごちそうだった。お弁当箱はアルミや木でできていた。おにぎりには具がなくて、みそをつけて焼いたり、のりをまいたりして、新聞紙や風呂敷につつんで持って行った。子どもたちの栄養状態があまりよくなかったので牛乳が出された。牛乳はびんに入っていた。
 子どもは外で遊ぶことが仕事。学校が終わるとカバンをなげて外に遊びに行った。自然にあるものがすべて遊び道具。地域には必ずガキ大将(年長の6年生や中学生)というリーダーがいて、子どもたちは大きい子も小さい子もみんないっしょに遊んだ。時代劇チャンバラごっこ、ベーゴマや缶けり、パッチ(メンコ)打ちもした。モノも情報も今と違ってあまりなかったので、遊び道具は自分たちで作った。
 おなかが空くと、自然で取れるものがおやつになった。木の実や野いちご、定川(近くを流れる川)でうなぎを釣ったこともある。放課後にワナを仕掛けて、翌朝戻ってくると、うなぎがワナの中で眠っている。取ったうなぎは家に持って帰って食べた。のりは海からとってきて、家の前で日の光に干して作った。
 電気はあったが、電話はなかった。もちろん携帯電話もパソコンもない。テレビもなかったので、ラジオで芸能人の歌を聴くのが楽しみだったそうだ。
 家の燃料も自分たちで探さなければならない。かまどに火を焚いてご飯を炊いたり、お風呂を沸かしたりするのにまきを使う。6月に山から木を採ってきて、稲刈りが終わるころまで乾かし、切ってまきにした。子どもたちも手伝った。冷蔵庫はないから、氷もなかった。魚屋さんは市場で魚を仕入れると、自転車で売り歩く。その日のうちに売らないと魚が腐ってしまうから大変だ。
 水道もなかったので、井戸水を風呂、洗たくに使った。洗たく機もないので、手洗いだ。なんでも手作業だった。風呂場もトイレも家の外にあり、明かりはなくて夜はこわい。トイレは水洗ではなく、くみ取り式。新聞紙をもんでやわらかくしてトイレットペーパーにしていた。ちり紙は高かったので、鼻をかむのも新聞紙。
 そのころの国道45号線はまだ砂利道。車があるのは裕福なお家だけだったので、公共のバス、産業用のトラックなどが走っていた。移動にはバスか電車を利用した。遠くに行くのは大変なので、子どもたちは地域の中で生活していた。今とは違う大変なくらしだったということがわかった。

【取材・文】
東松島市立大曲小学校
阿部 幸達(1年生)
今野 溢喜、 小俣 渓志郎、三浦 絆那(2年生)
阿部 優羽(4年生)
小俣 翔太郎(5年生)
小山 颯太(6年生)

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