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石巻魚市場株式会社 須能邦雄社長に聞く 石巻を国際水産都市に

取材を終えてにっこり

 石巻魚市場株式会社(石巻市魚町)の須能邦雄社長は、茨城県水戸市の出身だ。長く水産業にたずさわり、50歳の時に石巻で生活を始めた。「石巻の台所」と言われる魚市場を取り仕切る須能社長に、石巻への想いと震災時の魚市場についての話を聞いた。

 須能社長は茨城県水戸市出身だと聞きました。初めて石巻に来た時の印象はどうでしたか?

 須能さん 私は平成6年に石巻の市場に入社しました。それ以前に、私は大洋漁業(現・マルハ株式会社)で働いていた関係で、女川や牡鹿半島に来ていたことがあり、石巻には親しみを持って来ました。石巻に転職する以前から土地勘はあったし、全国に漁業の現場を伝えるのにふさわしい場所が石巻だなという魅力を感じて来ました。

震災時の魚町の様子はどうでしたか?

 須能さん 様子を正確に見ることができたのは、14日ごろだったと思います。それまでは、がれきや浸水がひどくて、市場まで来られませんでした。津波が8m、10mぐらいの高さで来たんです。津波っていうのは、「波」じゃないんですね。10mぐらいの高さの水の帯がずーっと来ますから、すごい破壊力があるんです。市場の1、2階が全部ぶち抜かれてしまったので、何も無い、大変なことになってしまったと思いました。

 震災後の石巻を見て、良いと思ったことと、悪いと思ったことはありましたか?

 須能さん 冷蔵施設が壊れたので、各工場が持っていた製品、原料の魚が腐敗して、その処分を250人ぐらいでしていたのですけど、その仕事を各企業の社長さんたちが先頭に立ってしたんですね。一番大変な仕事を、一致団結してしたという点では、非常によかったと思います。悪かった点は、何もなくなるほど破壊されてしまったこと。どこか大きな建物でも残っていれば会議などできたと思いました。

 これからの石巻について、どう思っていますか?

 須能さん 石巻は全部破壊されてしまった。だけど、神様は我々東北人の粘り強さを分かっていて、生かされた人間は運命的に生かされたんだから。神様は、耐えられない試練じゃなくて、耐えられる試練しか与えないんだから。あきらめなければ、必ず解決すると、そういう信念のもとに、支え合ってがんばろうと。無念の思いで亡くなった人たちの思いを感じ、愚痴もいいたいだろうけど、それを言わないでがんばるエネルギーに変えて行こうと思います。

 石巻魚市場は今回の震災で大きな被害を受けた。これからが本格的な復興となる。須能社長は、「ただ単に元に戻すだけでなく、世界に目を向けた国際水産都市にしなければならない」と話していた。

 最後に、受験を控えている私たちは、須能社長がどうして東京水産大学(現・東京海洋大学)を選んだのか聞いてみた。この大学を目指すきっかけになったのは、子どもの頃、映画館で見た日ソ漁業交渉のニュースだと言う。当時はテレビがまだ普及していなくて、ニュースを見るのは映画館だった。そのころは、大規模な遠洋漁業が盛んだったので、水産の道で、国際的な仕事をしたいと思った須能社長。「何年かかろうと、自分の目的に向かって進めばいいんだから、焦る必要はない」と私たちを励ましてくれた。

松川 彩香(石巻高校1年生)、鈴木 杏奈(石巻西高校2年生)

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