江戸時代、日本人で初めて世界一周したと言われる千石船「若宮丸」の乗組員について、石巻若宮丸漂流民の会の大島幹雄さんにお話を聞いた。
寛政5年(1793年)、若宮丸は、石巻を出て江戸に向かう途中、嵐に襲われ漂流した。この時代の船は、かじ取りに必要な帆柱が一本しかなく嵐に弱かった。沈没しないように帆柱を切ると、あとは海の流れにまかせるしかなかった。それから半年後、ロシア領アリューシャン列島の小島にたどり着き、原住民アリュート人に助けられ、ロシア人に保護された。ここには米も野菜もなく、生肉を食べた。一年後、イルクーツクへ移動した。
イルクーツクでの生活は7年続いた。「シベリアのパリ」と呼ばれたきれいな街。ここで、キリスト教の洗礼を受けた乗組員は、日本語学校の教師になって現地に残った。そのほかの乗組員も、漁師やパン売りなどをして生活のためのお金を自分たちで稼いだそうだ。ナイフ、フォーク、スプーンを使って食事をしたり、「ペチカ」というサウナ風呂に入ったり、ロシア人の日常生活を体験した。
そのころ、皇帝になったアレクサンドル一世は、日本と交易をしようとしていたので、この日本人たちを首都サンクトペテルブルクの宮殿に呼んだ。皇帝が「あなたたちは日本に帰りたいか?」と希望を聞いたそうだ。津太夫、左平、儀兵衛、多十郎の4人だけが帰ることを希望した。
4人は「ナジェージダ号(※1)」で長崎へ向かった。途中、イギリス沖で戦争に巻き込まれたり、強風で南極近くまで流されたり、マルケサス諸島(タヒチ)では、頭につの、全身に入れ墨をした原住民を見て「鬼が島」だと思ったりした。
文化元年(1804年)、一行は長崎に到着。日本は鎖国(※2)をしていたので、日本政府はロシア船の入港を禁止した。4人は、1年間、船から下りることができなかった。結局、ロシアは乗組員4人を日本に帰しただけで、交易を始めることはできなかった。そして、4人がふるさとへ帰ることができたのは、文化3年(1806年)のことだった。
※1 ナジェージダ: ロシア語で「希望」 の意味
※2 外国との交易を 禁止すること